高野山真言宗
総本山 金剛峯寺
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが
こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう
金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
というお経より名付けられたと伝えられています。
〒648-0294
和歌山県伊都郡高野町高野山132
高野山真言宗 総本山金剛峯寺
TEL : 0736-56-2011(代)
FAX : 0736-56-4640
(24/10/21 新規)
高野山金剛峰寺
大門 通過 12:50
金剛峰寺 駐車場 着 12:55
高野山大師協会
高野山霊宝館
御供所(御朱印)
(壇上伽藍根本大塔・金堂)
三鈷の松 六角経蔵
金剛峰寺 正門 鐘楼
大玄関 主殿
徳川家霊台
女人堂
金剛峰寺 駐車場 発 15:00
中の橋 駐車場 着 15:10
奥の院御供所 15:40
(弘法大師・大黒天は限定日)
燈籠堂・空海御廟
中の橋 駐車場 発 17:00
赤字は、御朱印が頂けるところ7カ所9種
高野山の御朱印が頂ける場所は?もらい方やもらう順番はある?高野山御朱印巡り | Something Plus
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高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた真言密教の聖地です。
「真言宗」には様々な宗派が存在します。主な宗派だけ数えてみても、実に18種類も数えることができます。高野山真言宗はそういった宗派の一つに含まれます。
わたしたち高野山真言宗は、高野山奥之院・弘法大師御廟を信仰の源泉とし、壇上伽藍を修学の場所として、真言密教の教えと伝統を今日に伝えています。
山 号:高野山
宗 派:高野山真言宗
寺 格:総本山
本 尊:薬師如来(阿閦如来とも)
創建年:弘仁7年(816年)
開 基:空海
中興年:長和5年(1016年)
中 興:定誉、木食応其
正式名:高野山真言宗 総本山金剛峯寺
札所等:真言宗十八本山18番
西国三十三所特別札所
神仏霊場巡拝の道 第13番
(和歌山第13番)
文化財:不動堂、絹本著色仏涅槃図ほか
(国宝)
大門、絹本著色大日如来像ほか
(重要文化財)
世界遺産
公式サイト
金剛峯寺関係各所料金表
金剛峯寺 :中学生以上1,000円 8:30~17:00
(受付16:30迄)
金堂 :中学生以上 500円 〃
根本大塔 :中学生以上 500円 〃
徳川家霊台:中学生以上 200円 〃
共通内拝券:中学生以上2,500円 上記5ヶ所
【女人堂(拝観料無料)】
開堂時間 9:00~16:30(受付16:30迄)
【奥之院 御供所(納経所)】
夏季夏季(5月~10月): 8:00~17:00
冬季(11月~4月): 8:30~16:30
【霊宝館】
一般1,300円 高校・大学生800円
夏季(5月~10月): 8:30~17:30
冬季(11月~4月): 8:30~17:00
※拝観受付は閉館30分前まで
【大師教会写経】
奉納写経実修料 1,500円
ご参拝時の作法
先ず、山門、境内・聖域の入り口で、
脱帽・合掌・礼拝(一礼)手水舎があるときは、両手と口を清めます
本堂入り口で、合掌・礼拝をして堂内に進む
本尊前にて、合掌・礼拝、ろうそく・
線香または焼香・お賽銭をお供えし
読経・祈願の後、最後にもう一度、
合掌・礼拝を致します参拝後、本堂並びに、山門・境内の
出口にて、それぞれ合掌・礼拝致します
参拝時の服装の注意点
厳粛な場である寺院をご参拝する際は、ご本尊様への参拝にふさわしい服装並びに行動を心がけて下さい。
●法事等での参拝は正装が基本となります。
●通常の参拝時も略礼装(平服)を基本とし、ラフになりすぎない服装でお参り下さい。
・肩や足など露出の多い服装はご遠慮ください。
タンクトップやキャミソール、オフショルダー等の場合は、ジャケット等を着用の事。
禁止事項
●聖域・建物内等、撮影禁止区域での撮影は厳禁です。
撮影して良い場所かどうか、必ず確認して下さい。
※必要な場合は事前に訪問地への確認をお取り下さい。
●喫煙場所以外での喫煙はご遠慮下さい。
●境内地への車両・自転車等の乗り入れは原則禁止です。
大門(だいもん)
高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。開創当時は現在の地より少し下った九十九折(つづらおり)谷に鳥居を建て、それを総門としていたそうです。山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されました。五間三戸(さんこ)の二階二層門で、高さは25.1メートルあります。左右には金剛力士像(仁王さま)が安置されています。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作です。正面には「日々の影向(ようごう)を闕(かか)さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯(れん)が掲げられています。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰を表しています。 また、大門の横手には弁天岳登山口があり、山頂には弘法大師が勧請された嶽弁才天(だけのべんざいてん)がまつられています。
壇上伽藍(だんじょうがらん)
お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥之院と並んで信仰の中心として大切にされてきました。以後の各諸堂の案内順番は、高野山に伝わる『両壇遶堂(りょうだんにょうどう)次第』に則っています。ご紹介順に諸堂をご参拝されますことをおすすめ致します。
中門(ちゅうもん)
金堂の正面手前の一段低い所にある中門。五間二階の楼門で、両脇には持国天(じこくてん)像(東)・多聞天(たもんてん)像(北)がまつられていましたが、天保14年(1843年)に壇上を襲った大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くしました。その後長らく再建はされていませんでしたが、高野山開創1200年記念大法会の記念事業として、平成26年(2014年)に中門を再建、翌27年(2015年)4月2日に落慶法要が執り行われました。なお、再建するにあたって増長天(ぞうちょうてん)像(南)と広目天(こうもくてん)像(西)が現代の大仏師・松本明慶により新造され、天保14年に類焼をまぬがれた二天像と共に四天王像が中門を、ひいては伽藍全域を守護しています。
金堂(こんどう)
高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
六角経蔵(ろっかくきょうぞう)
鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。この紺紙金泥一切経は、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来して、荒川経とも呼ばれるようになりました。したがって、この六角経蔵は、別名「荒川経蔵」といいます。現在の建物は昭和9年(1934年)2月に再建されました。経蔵の基壇(きだん)付近のところに把手がついており、回すことができるようになっています。この部分は回転するようにできており、一回りすれば一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれています。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されています。
大塔(だいとう)
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
三鈷の松(さんこのまつ)
金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。この松の木にこのようなエピソードが残っています。弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。現在では参詣者の方々が、縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。
高野山霊宝館
(こうやさんれいほうかん)
金剛峯寺をはじめ、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産を保護管理し、一般にも公開する目的で大正10年(1921年)に開設された、博物館相当の施設です。建物は宇治平等院を模して建造され、高野山でも数少ない大正建築として登録指定文化財に指定されています。
高野山大師教会
(こうやさん だいし きょうかい)
高野山真言宗の布教、御詠歌、宗教舞踊等の総本部で、各種研修会や講習会が開催されています。大講堂は大正14年(1925年)、高野山開創1100年記念として建立され、本尊には弘法大師、脇仏に愛染明王と不動明王が奉安されています。
また、大講堂の奥には授戒堂があり、菩薩十善戒(日常の生活の中で実践する仏教的規範)を阿闍梨さまよりお授けいただけます。
女人堂(にょにんどう)
その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。現在の女人堂は唯一現存する建物です。
徳川家霊台(とくがわけ れいだい)
寛永20年(1643年)に三代将軍・家光によって建立されました。一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでおり、向かって右が東照宮家康公霊舎(おたまや)、左が台徳院秀忠公霊舎となっています。境内の東端には三代将軍以下および御三家の尊牌堂(そんぱいどう)がありましたが、明治21年(1888年)に焼失してしまいました。
奥之院(おくのいん)
高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
燈籠堂(とうろうどう)
高野山第二世真然大徳(しんぜんだいとく)によって建立され、治安3年(1023年)に藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさになったと伝えられています。
堂内には消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈(いっとう)、昭和の時代にある宮様と首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が奉納されています。
弘法大師御廟
(こうぼうだいしごびょう)
大師信仰の中心聖地であり、現在でも肉身をこの世にとどめ、深い禅定に入られており、わたしたちへ救いの手を差し伸べていらっしゃるという入定信仰を持つお大師さまの御廟所です。現在も参られる方々を救い続けていると信じられ、日夜多くの参拝者が絶えません。